死刑制度について

一般的に罪と言われる結果が起こった時、それに至る過程で、どれほどの要素が関わっているだろうか。

罪を犯す人間とは一体どのように形成されるのだろうか。

誰しも、刑罰には至らないが、誰かを酷く傷つけてしまい、深く後悔したことがあるだろう。

そのような行為を行ってしまった、自分自身の動機を考えてみると、エゴイズムだけでは片付けられない、他の要因を起因とする劣等感が見え隠れする。

そもそも、我々人間は、遺伝子、生まれた場所、生まれた時間、両親、友達、恋人、身体的な能力、知的な能力、文化的背景、教育、容姿、出会い、運等、様々な要因が様々なタイミングで存在しており、一個の人間が出来上がっている。

人は年を取り、多くの経験を積むと、例えば目の前に、若く、単純な言動を行うものがいると、まるでその人間を理解し尽くしたかのように、得意気に説教を垂れたがる。

そして、社会的素養を身につけるには、経験と努力で、ほとんどの事をカバーし、解決し得ると思っている。

これほどまで傲慢な事があるだろうか。

他人を完全に理解することなど不可能だ。

この国には数多くの人が住んでいる。社会システムも人の精神も完全ではない。

必ず、社会からこぼれ落ちてしまう人がいる。これは現在、防ぎようがない。それは私ではなかったかも知れないが、私であったかも知れない。

被害者の心情を思うと胸が張り裂けそうになることもあるが、誰かに社会が罰を与えなければならない時、果たして死を与えることは適当なのか。

事前に誰かが手を差しのべることは出来なかったのか。誰も出来ないのであれば、福祉を充実させ、セーフティーネットを作れなかったのか。表面上ではない道徳を子供たちに教育出来なかったのか。

他の先進国の多くが、死刑制度に反対しているが、しかし、そのすべてが論理的な思考に基づいて結論しているとは思えず、宗教の影響は大きいだろう。それとも、敗戦後、与えられた日本と違い、自由と人権を手にいれるため、長い時間、多くの犠牲を払った歴史があるためだろうか。

しかしながら、どのような経緯があるにせよ、死刑制度を廃止することは、正しいことだろう。

日本は宗教のような形而上の思想がほとんど役に立たない。そのかわり、儒教の表面をなぞっただけの、薄っぺらい善悪が蔓延っている。

死刑は、感情面からの動機でしかならない。長期的な視点で見て、今後の犯罪の抑止に繋げ、社会的損失を防ぐには、罪を犯した人間に、悔い改めるように促し、そのプロセスを研究することが必要だ。(例え個々の結果が芳しくなくても)善悪を人に伝える、最善の方法を探るため。

また、犯罪を犯したものが、犯した瞬間だけではなく、それまでどのような人生を送ってきたか、また、どのタイミングで、どのような促しがあれば、人格形成のベクトルを正すことができたか考える必要がある。

先天的な要素があれば、予め手を打ち、社会性を身に付けるように促す方法を模索するべきだ。

死刑にしてしまっては、それで全てが解決したかのように見えてしまう。

犯罪の抑止に関しても、死刑になるような犯罪を犯す衝動に駆られるものにどれほどの効果があるのだろうか。しっかりとした検証も出来ないまま死という、極限を振りかざしても良いものか。

冤罪の可能性もある。

 

人権的な面からも、先に述べたように、数多くの人が暮らし、それぞれが人間という不可解な存在で有る限り、社会からこぼれ落ちてしまう人は一定数存在する。

私がここに存在し、仕事をし、家庭を持てて、人並みの暮らしができているのは、確かに私の努力もあっただろうが、その他は偶然の重なりによって、私があるのである。

どこかで何かが違えば、私も落ちこぼれてしまった可能性がある。

そう言った中で、人権を奪う最大の罪を、社会という、人々の総体的意思に基づいて、止む終えずとも行うのであれば、今すぐ止めるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

地球に落ちてきた男と私


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 地球に落ちてきた男

The man who fell to earth

 

先日、有楽町の映画館でデヴィッド・ボウイ主演の地球に落ちてきた男を観た。

近頃も幾つか映画を見てきたが、久し振りに没入した感覚があった。

仕事につき、家庭を持っていると、どうにも現実的になったり、ビジネスライクに利己的になり始めたり、挙げ句の果てにはそんな状況になっている事にすら、気付かない様になる。

この映画はその事にハッと気付きを与えてくれ、昔の感覚を思い出した。

 

自閉的な傾向にある人間や、文学や芸術に傾倒したことのある人間は、自分自身が様々な存在に対して、妙にかけ離れ、現実感に欠く印象を得たことがあると思う。

そこから、常識的と言われるものが如何にインチキであるか、人間の快楽を求める欲望に吐き気を催し、純粋さや真理を求め始める。

しかし、そう言ったものは、基本的に獲得し得ないものであり、モラトリアムとして燻り続ける。

 

デヴィッド・ボウイが演じる宇宙人は、地球に落ちた時、正しく真に純粋であった。(肉体的な愛も知らない)

それが、人間社会に慣れるにつれ、人間の欲望、特に性的な欲求を身に付けていく。

途中、自ら真の姿をさらけ出し、故郷に帰るつもりが、失敗し、捕まってしまう。

 

過去、白痴であったり、人間が狂っていく過程をもって、善悪にアプローチをする作品は多くあったが、ニコラス・ローグ監督も、前衛的な演出や美しいカメラワークのみならず、そう言った善悪(もっと漠然としている可能性)の対比を狙ったのではないか。

また、テクノロジーの発展とそれに伴う社会全体の人間性の変化もあると思う。

 

それら普遍性のあるテーマを内包し、かつ、前衛的ながらもしっかりと描き出せている点に、この映画が、ただのSF映画やデヴィッド・ボウイのキャラクターを浮かび上がらせるだけの映画に終わらず、長い間カルト的な人気を獲得できた理由だと思う。

 

場面が多く入れ替わるが、人間のエゴや人間の身体的及び精神的な表現と、デヴィッド・ボウイ演じる宇宙人の真っ白な視点の対比になっている。その演出をユニークでグロテスク、かつ美しいカメラワークでやるから、強烈な印象を与えてくれる。

 

最後、人間的な欲望と元々あった純粋さを併せ持って、悟り切ったように感じる主人公が、どのように生きていくのか、興味を引かれるが、モラトリアムの中で燻り続ける我々には、描くことは出来ないだろう。

 

デヴィッド・ボウイの演技は、なるほど大根と言ってしまえばそれまでだが、ペイブメントの演奏のように、ギクシャクし視点が定まらない様が映画全体により深みを持たせる事へ繋がっていると思う。