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地球に落ちてきた男と私


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 地球に落ちてきた男

The man who fell to earth

 

先日、有楽町の映画館でデヴィッド・ボウイ主演の地球に落ちてきた男を観た。

近頃も幾つか映画を見てきたが、久し振りに没入した感覚があった。

仕事につき、家庭を持っていると、どうにも現実的になったり、ビジネスライクに利己的になり始めたり、挙げ句の果てにはそんな状況になっている事にすら、気付かない様になる。

この映画はその事にハッと気付きを与えてくれ、昔の感覚を思い出した。

 

自閉的な傾向にある人間や、文学や芸術に傾倒したことのある人間は、自分自身が様々な存在に対して、妙にかけ離れ、現実感に欠く印象を得たことがあると思う。

そこから、常識的と言われるものが如何にインチキであるか、人間の快楽を求める欲望に吐き気を催し、純粋さや真理を求め始める。

しかし、そう言ったものは、基本的に獲得し得ないものであり、モラトリアムとして燻り続ける。

 

デヴィッド・ボウイが演じる宇宙人は、地球に落ちた時、正しく真に純粋であった。(肉体的な愛も知らない)

それが、人間社会に慣れるにつれ、人間の欲望、特に性的な欲求を身に付けていく。

途中、自ら真の姿をさらけ出し、故郷に帰るつもりが、失敗し、捕まってしまう。

 

過去、白痴であったり、人間が狂っていく過程をもって、善悪にアプローチをする作品は多くあったが、ニコラス・ローグ監督も、前衛的な演出や美しいカメラワークのみならず、そう言った善悪(もっと漠然としている可能性)の対比を狙ったのではないか。

また、テクノロジーの発展とそれに伴う社会全体の人間性の変化もあると思う。

 

それら普遍性のあるテーマを内包し、かつ、前衛的ながらもしっかりと描き出せている点に、この映画が、ただのSF映画やデヴィッド・ボウイのキャラクターを浮かび上がらせるだけの映画に終わらず、長い間カルト的な人気を獲得できた理由だと思う。

 

場面が多く入れ替わるが、人間のエゴや人間の身体的及び精神的な表現と、デヴィッド・ボウイ演じる宇宙人の真っ白な視点の対比になっている。その演出をユニークでグロテスク、かつ美しいカメラワークでやるから、強烈な印象を与えてくれる。

 

最後、人間的な欲望と元々あった純粋さを併せ持って、悟り切ったように感じる主人公が、どのように生きていくのか、興味を引かれるが、モラトリアムの中で燻り続ける我々には、描くことは出来ないだろう。

 

デヴィッド・ボウイの演技は、なるほど大根と言ってしまえばそれまでだが、ペイブメントの演奏のように、ギクシャクし視点が定まらない様が映画全体により深みを持たせる事へ繋がっていると思う。